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福島天満宮について

御祭神

御祭神

菅原道真公(すがはらのみちざねこう)

相殿神

大国主命(おゝくにぬしのみこと)

事代主命(ことしろぬしのみこと)

少彦名命(すくなひこなのみこと)

    元 中の天神 主神

御鎮座

延喜7年11月15日

(皇紀1567年、西暦907年)

令和5年より1116年前

福島天満宮の歴史

福島天満宮の歴史

 福島には三天神あり、上の天神・中の天神・下の天神と言われていました。

 上の天神と称されていた、当 天満宮上之社は、今次大戦(太平洋戦争)後に社殿の戦災に遭われた天満宮中之社(中の天神)を合祀して、福島天満宮と名を改め、今日に至ります。

 中の天神跡地(堂島大橋北詰・大阪病院正門の南側)は、当社の行宮として飛地境内地となっております。

 相殿神の大国主命は、いわゆる大国さまであり、五穀豊穣や福の神として有名です。また事代主命は恵比須さまであり、産業の進展・縁結びの神などとして有名です。少彦名命は農業や医薬などの神として知られています。

道真公の太宰府左遷

道真公の太宰府左遷

 菅原道真公の家筋は代々、学問によって朝廷に仕えておりましたが、道真公は特に秀でた学問の才能をお持ちであり、当代随一の学者と言われておりました。その才能は朝廷の厚い信頼を得て、政界においても右大臣にまで昇進されました。しかし、57歳になられた頃、左大臣藤原時平の陥れにより、九州の太宰府に左遷されてしまいました。

 醍醐天皇の延喜元年2月1日、当時の都であった京都を出発された道真公は、伯母にあたる河内道明寺の覚寿尼を訪ねた後、淀川から船で西に向われました。

道真公と福島の地

道真公と福島の地

 当時の淀川の本流、今の堂島川のほとりにある福島の地は、大阪湾より海路を目指す際の風待ちの地でした。九州に向かう失意の旅路の道真公御一行は、丁重に迎えた徳次郎という者の心からのもてなしにとても喜ばれました。そこで感謝を表すものとして里人が織った布に自ら御姿を描き、与えられました。現在もこの御自画像が当社の御神体とされております。​

 また土地の名をお尋ねになり、土地の者が「鹿飢島(がきじま)」または「原島(あしはらじま)」と答えたところ、「鹿飢」は「餓鬼」に、「」は「悪し」に音が通じるため良くないとおっしゃられました。

そして徳次郎の徳の字の縁から、土地の名を「福島」と改め、徳次郎には「福元」という姓を名乗るようにとおっしゃられたそうです。

​(「福元」の一族は後に当社の一老・宮座となり代々継がれて明治維新に至り、今もなお存続すると言われております。)

福島天満宮の創始

福島天満宮の創始

 さらに、福島にて梅の木が一本あるのをご覧になった道真公は、

 『行く水の中の小島の梅さかば さぞ川浪も 香に匂ふらむ』

 と詠まれ、再び都に帰ることは難しいためこの島に遺蹟を作るとして、梅の枝に松の枝を添えて一緒に挿し植えられました。その枝は後に、不思議にも一本の木となって根を下ろし、元禄十余年の風害に遭うまで、長く葉を茂らせたそうです。

 そして大宰府に赴かれた道真公がその2年後、延喜3年2月25日に逝去されたという訃報を風の便りに耳にした福島の土地の者たちが、道真公の徳を慕い、梅と松の2本の枝が根を下ろした場所に、小さなを建て、道真公を祀りました。これが当神社の創始となります

 翌延喜8年1月13日、相殿神として大国主命・事代主命を合わせ祀り、同年9月21日に盛大な神事を行ったことが、以後毎年の秋祭りの始めとされています。(なお、9月21日は明治になり陽暦となったため10月21日に改まり、年間最重儀の例大祭として戦後の今日も、特に神社本庁・大阪府神社庁より献幣使の参向を得て、厳粛に執り行われております。)

「神酒天神」

 一条天皇の正歴4年10月19日、勅使散位為理卿が筑紫に赴かれる際、風待ちの間に御祭神が道真公だとお聞きになり、参拝にいらっしゃいました。その際に御酒を神前にお供えされたところ、神霊を感じられて、道真公が自身の御顔を紅く染めて現れたを伝えられました。

​ このことから、当社の道真公は「神酒天神」とも称され、崇められております。

「神酒天神」

社殿・境内地について

社殿・境内地について

 道真公の御自画の御神影は、その昔のまま今日に至っても本殿にて鎮納されております。

 宝暦8年の御改築を経て、嘉永3年に御造営された旧社殿は、明治42年7月31日のいわゆる「北区の大火」(天満焼け)で炎上しました。御神体のみは辛うじて浦江八坂神社に遷し奉ることができましたが、旧記・宝物などの当時まで伝えられてきた大部分が消失してしまいました。しかしながら同年の秋の大祭を間近に控えていたため、直ちに仮殿建立に取り掛かり、同年10月19日に御神体を遷し還し奉ることができました。本建築の本殿竣成は大正4年、拝殿以下は大正10年に竣工致しました。

 今次大戦(太平洋戦争)の際に、境内に落下した焼夷弾11発は不思議にも全弾不発でした。道路を隔てた一帯の民家を始め、氏地の被災は甚大なものがありましたが、神社の一画は事なきを得ました。

​ 昭和42年、幹線道路「なにわ筋」の拡幅に伴い、旧浄正橋筋に面する約120坪を失い、境内が狭くなったため、社殿やその他の配置なども今日のようになりました。

 阪神淡路大震災では、境内の燈籠は全部崩壊、建物も揺れのため、柱・桁の緩みや一部折損、また白壁の剥落もありました。表門正面の石の大鳥居は西側の柱が根元から折損、東の柱も危険であったので直ちに解体、撤去せざるを得ない状態でした。しかし、ほぼ一年後の12月に、一篤志家の一建立奉納により、新しい素材の大鳥居が以前と遜色ないほどに復興されました。

境内社

​境内社

摂社 吉高稲荷神社(よしたかいなりじんじゃ)

  御祭神 宇賀御魂大神(うかのみたまのおおかみ)

  例祭日 4月2の午日

 農作物を始め産業一般を守護なさり、いわゆる事業繁栄の神様。

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○末社

・野見宿祢神社(のみのすくねじんじゃ)

  御祭神 野見宿祢公

 菅原家の祖神で、御魂代はもと五条殿鎮守の御木像。

 埴輪制定の功により、土師という姓を賜り、土師宿祢(はじのすくね)とも言います。

 当麻​(たいまのけはや)との故事から、相撲の神様としても有名です。

・勇神社(いさむじんじゃ)

  御祭神 久々能貴命(くくのちのみこと)

 家屋の守護神。

・住吉神社

  御祭神 住吉四柱大神

 上筒之男(うはつゝのおのみこと)・中筒之男命(なかつゝのおのみこと)・底筒之男命(そこつゝのおみこと)・神功皇后(じんぐうこうごう)の四柱の神で、海上の守護神。

・安廣神社

  御祭神 祓戸大神

 長年月の間に詳細は不明であるが、罪穢れを祓い清める祓戸大神とされています。

・事平神社

  御祭神 大物主命(おおものぬしのみこと)

 海上航海等の守護神。

・林神社

  御祭神 林伊織命(元 中の天神  末社)

 戯曲「敵討天下茶屋聚(​かたきうちてんがちゃやむら)」で名高い林伊織を祀っています。

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