



〒553-0003
大阪市福島区福島2-8-1
TEL 06-6451-5907
開門時間 6:00
閉門時間 18:00
福島天満宮について

御祭神
菅原道真公(すがはらのみちざねこう)
相殿神
大国主命(おゝくにぬしのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
元 中の天神 主神
御鎮座
延喜7年11月15日
(皇紀1567年、西暦907年)
令和5年より1116年前

福島天満宮の歴史
福島には三天神あり、上の天神・中の天神・下の天神と言われていました。
上の天神と称されていた、当 天満宮上之社は、今次大戦(太平洋戦争)後に社殿の戦災に遭われた天満宮中之社(中の天神)を合祀して、福島天満宮と名を改め、今日に至ります。
中の天神跡地(堂島大橋北詰・大阪病院正門の南側)は、当社の行宮として飛地境内地となっております。
相殿神の大国主命は、いわゆる大国さまであり、五穀豊穣や福の神として有名です。また事代主命は恵比須さまであり、産業の進展・縁結びの神などとして有名です。少彦名命は農業や医薬などの神として知られています。

道真公の太宰府左遷
菅原道真公の家筋は代々、学問によって朝廷に仕えておりましたが、道真公は特に秀でた学問の才能をお持ちであり、当代随一の学者と言われておりました。その才能は朝廷の厚い信頼を得て、政界においても右大臣にまで昇進されました。しかし、57歳になられた頃、左大臣藤原時平の陥れにより、九州の太宰府に左遷されてしまいました。
醍醐天皇の延喜元年2月1日、当時の都であった京都を出発された道真公は、伯母にあたる河内道明寺の覚寿尼を訪ねた後、淀川から船で西に向われました。

道真公と福島の地
当時の淀川の本流、今の堂島川のほとりにある福島の地は、大阪湾より海路を目指す際の風待ちの地でした。九州に向かう失意の旅路の道真公御一行は、丁重に迎えた徳次郎という者の心からのもてなしにとても喜ばれました。そこで感謝を表すものとして里人が織った布に自ら御姿を描き、与えられました。現在もこの御自画像が当社の御神体とされております。
また土地の名をお尋ねになり、土地の者が「鹿飢島(がきじま)」または「葭原島(あしはらじま)」と答えたところ、「鹿飢」は「餓鬼」に、「葭」は「悪し」に音が通じるため良くないとおっしゃられました。
そして徳次郎の徳の字の縁から、土地の名を「福島」と改め、徳次郎には「福元」という姓を名乗るようにとおっしゃられたそうです。
(「福元」の一族は後に当社の一老・宮座となり代々継がれて明治維新に至り、今もなお存続すると言われております。)

福島天満宮の創始
さらに、福島にて梅の木が一本あるのをご覧になった道真公は、
『行く水の中の小島の梅さかば さぞ川浪も 香に匂ふらむ』
と詠まれ、再び都に帰ることは難しいためこの島に遺蹟を作るとして、梅の枝に松の枝を添えて一緒に挿し植えられました。その枝は後に、不思議にも一本の木となって根を下ろし、元禄十余年の風害に遭うまで、長く葉を茂らせたそうです。
そして大宰府に赴かれた道真公がその2年後、延喜3年2月25日に逝去されたという訃報を風の便りに耳にした福島の土地の者たちが、道真公の徳を慕い、梅と松の2本の枝が根を下ろした場所に、小さな祠を建て、道真公を祀りました。これが当神社の創始となります。
翌延喜8年1月13日、相殿神として大国主命・事代主命を合わせ祀り、同年9月21日に盛大な神事を行ったことが、以後毎年の秋祭りの始めとされています。(なお、9月21日は明治になり陽暦となったため10月21日に改まり、年間最重儀の例大祭として戦後の今日も、特に神社本庁・大阪府神社庁より献幣使の参向を得て、厳粛に執り行われております。)

「神酒天神」
一条天皇の正歴4年10月19日、勅使散位為理卿が筑紫に赴かれる際、風待ちの間に御祭神が道真公だとお聞きになり、参拝にいらっしゃいました。その際に御酒を神前にお供えされたところ、神霊を感じられて、道真公が自身の御顔を紅く染めて現れたを伝えられました。
このことから、当社の道真公は「神酒天神」とも称され、崇められております。
